Bonjour

このところ話題になっている、森喜朗氏の発言問題。私も森氏が年寄りだから

とかという理由ではなく、彼の人間性というか発言に対してオリンピックを取り仕切る人間としてはふさわしくないと思う一人でしたから(当初から。誰が決めたの

って思ってました)森氏自身で墓穴を掘ってしまったわけで もう潔くその場を離れたほうがいいのではと思っております。
ま 彼のことはさておき、、、、
2020年からもう1年以上このコロナの問題で世界中が大変なことになってますが、、、こんなことになっていろいろ見えてきたこともあり、私は特に
惨事の時にこそ、その真が見えるというか そんなことを感じてます。
私などはまさにフランスとの仕事をしていたので 全く仕事はできなくなりました。(副業の日本語教師は所詮副業ですから)
とはいえ 給付金もいただいたし、大変なのは私だけじゃないから この時間を有意義に使おうと フランスの気候や風土 人 食が
一番近いと思われる小諸へ なんどか足を運び フランスを感じながらおりました。仕事などは忘れて

ところがそれが仕事になりました。ありがたいことに・・・

今年になって大好きな(といっても苦しんでますが)フランス語と共に小諸での仕事を開始しております。こういうことがなければ フランス行きも遠ざかって フランス語を学ぶ機会も激減したはずです。昔から
座して観念の遊戯をするより 書いて動いて話して聴いて をモット―にしてきたお蔭です。
そしてコロナ禍で仕事がなくても励まし合っていた人は 良い時も悪い時も声を掛け合える友人なんだと改めて認識したりしてます。人は 自分が大変なとき また相手が大変なとき どちらの時にでも いつもと同じでいられるかどうか・・・・そうありたいと願います。
もう数年で還暦を迎えるにあたり 人生は確実に折り返したわけで、これからの人生をどういきるか。最近このコロナを経験してよく考えます。そんな中 こんな言葉に出会いました。沢山臨終に立ち会ってきた看護師さんの言葉だそうです。
「人生の最期に、パーとパノラマのように自分の人生が思い出されるようです。その中身は、自分が社長になったとか、商売がうまくいったとかではなくて、自分がどんなふうに生きたか、誰をどんなふうに愛したか、優しくしたか、どんなふうに冷たくしたか。自分の信念を貫いた満足感とか、裏切った傷とか、そういう『人間として』の部分がぐわぁーーと迫ってくる」 なんと 深い言葉でしょうか。
社会でのタイトルなんて大したもんじゃない、そしてお金があるかどうかも(全くないのは困るけれど)一番大事なことじゃない。
自分は人間として 最期の時まで学び、少しでもどんなふうに生きるか を問いながらこれから進んでいきたいと切に思うのです。
Millejoies Planning

Mieko SATO